国の有形登録文化財
(建造物)
登録文化財:和田家住宅について
和田家は、宝暦元年(1751年)、この地の領主である本多下総守康視公から御代官御掛居役を補されていた和田八衛門直澄の長女仙子が、安永5年(1777年)2月22日に現在の地に建立し、石川郡切山村の武部庄兵衛の次男を養子に迎え、同年12月に移宅したものである。
和田家は、河州金剛山麓七郷で楠氏を称した楠氏族の一つで、菊水の家紋を受け継ぎ、楠正玄の子和田和泉守孫三郎正遠の位牌(楠正成が亡くなった湊川の合戦と同年の延元元年5月25日卒)が祀られている。
当家は、江戸から明治にかけて代々村庄屋を務めた家で、三代当主和田与次兵衛正廣の赤峰開発の功により、明治3年、現寺ケ池公園内に顕彰の碑が建立されている。
和田家は、大和棟(やまとむね)をもつ大型民家で、集落の象徴的存在と言える。江戸末期に南に一室を増築し、南にあった入口を東南に移築し、昭和49年に大屋根を含め大改修し今に至る。切妻造り茅葺きの両側に本瓦葺きの落ち棟が接続し、内部は、北に土間,南に前後二列各三室を配し,巧みに座敷二室を設けている。床框や袖壁止めにはタモが用いられ、床柱に北山杉のちりめん丸太が使われている。周辺の板廊下は栂の材が、付け床や大黒柱は欅、その他にも屋久杉や鉄刀木といった当時の貴重な部材が使われ、江戸期から近代の家屋建築の特徴が見られる。
さらに、身分の高い武士等のために、一般民衆用の玄関とは別に、母屋の中心部に本玄関が設けられ、矢筈(やはず)天井や欄間のある凝った造りである。座敷と一般の間を区別したキツネ鴨居が現存し、当時の庄屋のあり方が感じ取れる。
同敷地には、今回登録された主屋の他に、江戸期に建てられた二階建ての土蔵や長屋門、中門が現存し、天保から明治にかけての当時の行事や地図、奉行への願い書、神符、小作台帳等大量の古文書や掛軸、更に婚礼や寄り合いなどの村の行事が当家で執り行われた際の煙草盆や酒器、懐石道具組等が多数確認されている。
河内長野市報道提供資料
(リンク)
和田家は、河州金剛山麓七郷で楠氏を称した楠氏族の一つで、菊水の家紋を受け継ぎ、楠正玄の子和田和泉守孫三郎正遠の位牌(楠正成が亡くなった湊川の合戦と同年の延元元年5月25日卒)が祀られている。
当家は、江戸から明治にかけて代々村庄屋を務めた家で、三代当主和田与次兵衛正廣の赤峰開発の功により、明治3年、現寺ケ池公園内に顕彰の碑が建立されている。
和田家は、大和棟(やまとむね)をもつ大型民家で、集落の象徴的存在と言える。江戸末期に南に一室を増築し、南にあった入口を東南に移築し、昭和49年に大屋根を含め大改修し今に至る。切妻造り茅葺きの両側に本瓦葺きの落ち棟が接続し、内部は、北に土間,南に前後二列各三室を配し,巧みに座敷二室を設けている。床框や袖壁止めにはタモが用いられ、床柱に北山杉のちりめん丸太が使われている。周辺の板廊下は栂の材が、付け床や大黒柱は欅、その他にも屋久杉や鉄刀木といった当時の貴重な部材が使われ、江戸期から近代の家屋建築の特徴が見られる。
さらに、身分の高い武士等のために、一般民衆用の玄関とは別に、母屋の中心部に本玄関が設けられ、矢筈(やはず)天井や欄間のある凝った造りである。座敷と一般の間を区別したキツネ鴨居が現存し、当時の庄屋のあり方が感じ取れる。
同敷地には、今回登録された主屋の他に、江戸期に建てられた二階建ての土蔵や長屋門、中門が現存し、天保から明治にかけての当時の行事や地図、奉行への願い書、神符、小作台帳等大量の古文書や掛軸、更に婚礼や寄り合いなどの村の行事が当家で執り行われた際の煙草盆や酒器、懐石道具組等が多数確認されている。
河内長野市報道提供資料
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